No.5 代官山駅

代官山建築エッセイ No.5
代官山駅

 今の代官山駅舎は1989年に新しくされたものである。最初の駅舎は同潤会(同潤会代官山アパートメント)※1の方に向いて坂の途中に出入口があった。その後に今の方向に移された。その古い駅舎のことは良く覚えている。コンクリートブロックに木のサッシ、低いフラットな鉄骨の屋根という簡素なものだった。それでも同潤会の古い擁壁や木々,そして鄙びた家や道と良く合っていた。印象的だったのは通りと駅に挟まれるようにあった「森永ベーカリー」だ。朝、代官山の駅を降りると焼けたてのパンの匂いがした。今でも記憶の奥底にまだあって、時々ホームに降り立つとパンの匂いがしてくるような気がする。今回、東横線渋谷駅地下化に伴うホームの延長と踏切の廃止という大変革行なわれたが、実は30年ほど前1986〜89年にかけて代官山駅存続に関わる大きな「事件」があった。
 もともと代官山駅のホームはトンネルと踏み切りの間にあり、充分な長さがとれず渋谷駅寄りの1両か2両の車両のドアが開かなかった。輸送量増強のため車両数を増やすに際して、どうしてもホームの延長が必要となり、東急電鉄から踏切を廃止して渋谷側に延長させる案が地元に提示された。地元の踏切廃止反対に対して、仮駅として駅を踏切から渋谷側に移した。地元の様々な人が頻繁に集まりをもち、「駅復旧を促進する会」を発足させ、1600名ほどの署名を集め、東急電鉄や渋谷区との折衝を重ねた。渋谷区への陳情書が採用され、その後、駅を元の位置に復帰する方向で進むことになった。
 この事件(運動)は代官山地域でのまちづくりにとって重要な意味をもつものとなった。今の独自なまちづくりのルーツがここにある。
 町会や商店会の決められた活動以外に、代官山の住人たちは、あまり地域と関係をもたず生活していた。様々な人が住んではいたがお互い見知らぬままであった。しかし駅という極めて生活や商業活動に直結した問題に対して様々な人が集まり、始めて地域を意識して意見を述べ合った。高校教師、医師、弁護士、大会社の人事部長、不動産オーナー、喫茶店の経営者、渋谷区議等々。多彩な住人が夜毎集まり、代官山の駅や街について真剣に語り合い、綿密な作戦を立てて運動を展開していった。
 「このことによって、様々な地域の人と知り合いになることが出来た。それはその後の代官山のまちづくりの基礎になるものだった。」とヒルサイドテラスのオーナーの朝倉健吾氏は語っている。確かにこれまでの因習にとらわれない人の集まりと活動は、その後の代官山アドレスでの地域と開発の調整の問題や、代官山プラザビルの問題 ※2を経て、「代官山ステキな街づくり協議会 」※3の発足と活発な活動まで続いてきたということが出来る。現在の代官山のまちづくり活動が,多彩な人々が参加のもとに行なわれていることが、このことを良く表している。
 駅が戻ってきて駅舎が新しくなると聞いて、「変な駅舎が出来たらやだな」と、当時ヒルサイドテラスのE棟の地下にアトリエを共有していた、建築家の山本理顕さんと私は「われわれが設計したい」と東急電鉄に打診をした。「鉄道はいろいろな難しい制約があり、慣れた人でないと無理」とやんわり断られた。しかし完成した2階建ての駅舎のデザインは悪くない。スケールの調整が良く出来ている。欲を言えば正面だけでなく、もう少し周囲に開けた空間にした方がよかったかなと思うけれど。
 設計者は、水谷碩之(みずやひろゆき)氏。代官山駅だけでなく東急電鉄の他の駅も手掛けている。坂倉準三建築研究所に入所、小田急新宿西口駅本屋ビルなどを担当し,その後アーキブレーン建築研究所を開設し,1993年には「NTSシステム総合研究所」の設計で日本建築学会賞(作品部門)を受賞している。

 駅が新しくなった少し後、駅前に白い建物が新築され、ケヤキの若木が数本植えられた。成長の早いケヤキは駅前に緑の風景をもたらした。その建物の2階に私の藝大での恩師の事務所茂木計一郎先生のアトリエ事務所があり、私の親友がスタッフとしてそこに居た。その向えの「東急代官山アパートメント・アネックス」は1959年建設。なんと半世紀以上も前である。

 代官山の駅前は、キャッスルストリートへ降りる道とT字路になっていて、コーヒーの屋台がある駐車場の空間と合わせて小さな広場のような広がりをもっている。面している建物たちのスケールもデザインもいい感じである。
 ここで提案なのだが、駅前の交通量は極めて少ない。ここを自動車の通行を禁止にして、歩行者のための本当の広場にしたらどうだろうか。イメージしてみて欲しい。賛同者を募ります。

※1 関東大震災後の住宅の復興支援のため「同潤会」が組織され、東京と横浜の15カ所に同潤会アパートメントを建設する。 不燃建築を目指し、RC造でつくられ、計画、技術,デザインとも新しい当時の世界の最先端のものであった。他の同潤会アパートメントが市街地の街区の形成を目指したが、広さと地形と自然豊かな代官山ではやや郊外型の団地として計画された。戸数337戸、風呂屋や食堂や理髪店があった。つくられたのは1927年。1996年に解体される。解体前に北川フラムさんたちが中心になって「さよなら代官山アパート展」(http://www.ucatv.ne.jp/~kajisin/haikyo-miman/dai.htmlに記録がある)が行なわれた。再開発されたものが「代官山アドレス」である。
※2 「代官山プラザビル」の立て替えに際して、「高層ビルは代官山の景観に相応しくない」と考えた地域の人が集まり、「代官山の良好な生活環境を守る会」を発足させた。協議の結果26階から16階まで引き下げられた。これをきっかけに代官山地域の環境を考える機運が高まり、今の「代官山ステキな街づくり協議会」の活動に繋がっていく。
※3 「代官山ステキな街づくり協議会」について、是非右のHPを参照して下さい。 daisukikai.org  

[公開日] 2017年6月24日

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著者:元倉眞琴

NPO法人代官山ステキ総合研究所・副理事長。建築家。東京藝術大学名誉教授。

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